[前編からの続き]
2023年NHKの連続テレビ小説「らんまん」のモデルとなる、植物学者・牧野富太郎氏。牧野博士が植物学者として唯一無二の存在となった理由のひとつに、その類稀なる描写力があります。今回は、牧野博士の描写力に焦点を当ててご紹介します。種の典型を目指し観察を重ねて写生したリアルな植物図と、実際の草花を並べて見せる高知県立牧野植物園ならではの展示法も必見です!
引き込まれる植物園の展示〜16歳で描いた植物図
前回、学生でもないのに富太郎が東京大学理学部植物学教室への出入りを許されたところまでお話ししました。その頃、富太郎は22歳。なぜ、学費も支払っていない一青年が大学の教室に出入りが許されたのでしょう?
今では考えられませんが、当時といっても普通にあったことではなく、富太郎の知識や才能が周囲を圧倒したからに違いありません。それを、世間にわかりやすく伝えたのが細密な植物図です。牧野富太郎記念館 展示館には、富太郎が描いたさまざまな植物図が展示されています。なかには、16歳の頃に描いた絵もあり、10代ですでに確かな描写力を身につけていたことがわかります。
植物の全貌を一枚の紙に収めた「牧野式植物図」
富太郎の植物図は、目の前にある草木の、その一瞬だけを捉えたものではありません。また、その1個体だけでもありません。たとえば猫にペルシャ猫という種類がありますが、1匹1匹顔つき、体つきが違います。そのように植物にも個性があるのです。そのため富太郎はある植物を描くとき、1つの個体だけではなくいくつも観察して典型的な個体を見出し、また花、種子など時期によっては見られないもの、顕微鏡などで見た解剖図などを一枚の紙に描きます。細かな描写は、ネズミの毛3本分といわれるほど細い筆を使って描かれおり、植物学に詳しくなくてもその美しさ、精細さに圧倒されます。
博士の人生を変えた植物たち〜日本人が国内で初めて新種に学名を付けた「ヤマトグサ」
「四国の山奥から、えらく植物に熱心な男が出てきた」。東京大学理学部の矢田部教授から歓迎され植物学教室へ出入りを許された22歳から28歳までは富太郎にとって激動の時代です。東京に居を構え、高知と東京を行ったり来たり。今流行りのデュアルライフ(二拠点生活)の先駆けともいえますが、公共交通機関が発達していない時代に定職に就くことなくこのような生活を送っていたとは、実家の裕福さがよくわかります。
採集した植物や泥にまみれた富太郎の下宿には、東京大学の頭脳に秀でた学生たちが集まります。一緒に植物採集のため遠征したり、ごはんを食べたり、親交を深めるなか、仲間同士で植物雑誌の刊行することになります。25歳で『植物学雑誌』を創刊、26歳で『日本植物志図篇』を刊行します。
27歳のときには、日本で初めて新種のヤマトグサに学名をつけます。それまでは、新種を発見しても外国の学者に学名をつけてもらっていたので、日本植物学界においての大きな一歩です。しかし、この頃から矢田部教授の富太郎に対する態度が変わってきます。
<コラム 博士を取り巻く人々>
朝ドラでも、中盤に登場し、注目を集めそうなのが矢田部教授。蘭学者の父の元に生まれ、外務省に入省。渡米してアメリカの大学で植物学を学び、帰国後は東京大学創設時に理学部教授に抜擢された素晴らしい経歴の持ち主です。反面、西洋かぶれで社交ダンスに熱中したり、「夫を選ぶなら理学士か教育者でなければならない」と発言して、今でいう炎上騒ぎを起こしたりとかなり個性的な人物。波瀾万丈な人生を送ります。
悔し泣きの日々を一転させた不思議な水草「ムジナモ」
富太郎の活躍に刺激を受けたのか、矢田部教授は「わしも同じような本を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も、標本も見せるわけにはいかない」と宣言します。富太郎28歳の頃のできごとです。富太郎にいくら才能があったとしても、日本植物志を作るには膨大な資料が必要。言葉を尽くして嘆願してもけんもほろろに扱われ、下宿で悔し泣きをしたそうです。この事件と前後して、富太郎は世界的珍奇な水生植物に出合います。それが「ムジナモ」。富太郎にその植物の学名を教えてくれたのは矢田部教授だったのですが、そのすぐ後に教室を出入り禁止になってしまいました。富太郎はよその学校の植物学教室で「ムジナモ」の写生図を完成させ発表します。
ムジナモは根を持たない水生植物で、1属1種の食虫植物。夏の限られた時期、限られた時間帯、1時間ほどの短い時間のみ開花します。富太郎の発見時には世界に知られていた植物なのですが、花はほとんど知られていませんでした。
ところが、富太郎はこの直径5ミリほどの小さな花を顕微鏡で観察したのでしょう。解剖図を精緻に描き、発表します。その後、世界的に有名な植物分類書『Das Pflanzenreich』 にその図が転載され、富太郎の名は世界に知られることとなります。その後、94歳でその生涯を閉じるまで日本の植物学の発展に寄与し続けるのです。
牧野植物園では展示館 中庭の水盤で育てられています。2022年には、8月初旬の正午頃、1時間ほどの間だけ数ミリの花が水面から顔をのぞかせました。
祖母との別れと初恋
プライベートでも人生の節目となる出来事がありました。富太郎25歳の年、植物のためなら金に糸目をつけない富太郎を陰でずっと支えてきた祖母を亡くします。その翌年、26歳のときに糟糠の妻となり富太郎を生涯支える寿衛(すえ)さんと所帯を持ちます。富太郎は生涯酒もタバコも嗜みませんでしたが、大のお菓子好きで寿衛さんを見染めたのもお菓子屋さん。一目惚れで毎日のようにお菓子を買いに通ったそうです。
新種、新品種をふくめ1500種類以上の植物に名前をつけた富太郎ですが、植物には自分の名前はもちろん多額の支援をしてくれた人たちの名前もつけていません。その富太郎が唯一、人名から植物の名をつけたのが「スエコザサ」です。寿衛さんが病に倒れ、重篤のときに見つかった新種のササに「ササ・スエコザサ」の学名を付け、妻の名前を永久に残しました。
<コラム> 富太郎が高知の名物にと推す菓子「百合羊かん」
菓子が大好物だった富太郎氏、「百合羊かん」を土佐名物に、と推しています。漢方の材料にもなる百合根を使った「百合羊かん」は、牧野植物園館内にある「ボタニカルショップ nonoca」でも購入できます。
牧野植物園ならではの生きた学びの展示
牧野植物園では、富太郎の描いた植物図がいたるところに飾られています。取材時期に咲いていたのはジョウロウホトトギス。富太郎が発見し和名を付けたジョウロウホトトギスの隣には花の説明とともに富太郎が描いた植物図が展示されて、実際の花と見比べられるようになっています。どれだけ正確に精密に描かれているのか、生で体感できる展示は見応えがあります。
富太郎が描いた貴重な植物図、年を重ねるにつれて精度が上がるその絵は美術品といっても過言ではない美しさです。ぜひじっくり鑑賞してください。
次はいよいよ牧野植物園を歩きます。