焼けイチョウ巡りに参加しました
ご神木はイチョウが多い。ということでイチョウの情報はお休みしていましたが、城南空襲を語り継ぐ会主催の案内人の米屋陽一氏(日本民話の会会員、日本口承文芸学会理事ほか)が案内役の『焼けイチョウ巡り』に参加して、ご神木にイチョウが多いワケがわかったような気がしました。
イチョウは歴史の生き証人だった
城南空襲とは、昭和20年 4月15日深夜、東京都大田区(当時の大森区・蒲田区)のほぼ全域にB29爆撃機202機が飛来し全区の99%が焼失。池上本門寺は惣門・五重塔・輪蔵を除いてほぼ全焼、多摩川大橋も焼け落ちたとされています。もちろん、空襲はこの場所だけではなく、この空襲を含み東京都でも第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカにより行われ東京大空襲と称されています。これは東京の都市部を標的とした無差別爆撃で市民に大きな被害を与えたものだったとされています。今、ビルが立ち並んでいる都心が、かつては空襲で焼け野原のようになってしまったことなど空襲を体験した方しか心にとどめていないのかも知れません。そして、その空襲の傷跡を残しながら生きているのが「焼けイチョウ」でした。
一年にたった1度しか見ることができない焼けイチョウを見に行く
史跡としても有名な湯島聖堂の敷地内には神農廟(しんのうびょう)という場所があります。神農とは、古代中国の伝説上の帝王である三皇のひとりで中国古典籍によると、初めて農具を作り人民に農耕を教えたとされています。ほかに病気で苦しんでいる人のために医薬を研究し、農作物とほかの物品との交換、交易を教えたと伝えられ、日本では江戸時代から医薬の始祖として東洋医学者とされています。その神農が奉られている場所が湯島聖堂の中にあるのですが、この場所は今では年に一度11月23日の午後13時~15時までの2時間しか立ち入ることができない場所になっています(以前は自由に出入りできたようですが……)。
その神農廟の周囲にあるのが、幹の一部が炭になっている焼けイチョウです。何も知らずに見ると火事でもあったのかと思いがちですが、実はこの焼けイチョウこそが東京大空襲の生き証人なのです。実は都内にはまだまだいくつもの焼けイチョウがあります。そして、年配者の方が「焼き芋するときはイチョウは入れたらあかんよ」と言うほどイチョウは燃えにくい樹木です。多くの神社でご神木がイチョウになっているのは、イチョウが燃えにくかったからという理由がそのひとつなのです。そして、境内で一番古い樹木をご神木と呼ぶことが多いため、焼け残った木としてイチョウとなる場合が多いのです。ちなみに、その昔は庭には燃えにくい樹木を植えることが多く、これは景観だけではなく防火の役割があったことを忘れてはならないように思います。
近くの神田明神(神田神社)にも焼けイチョウあり
あの平将門の首塚とも関係し、神田祭の賑わいで知られる神田明神。湯島聖堂とは目と鼻の先にあります。湯島聖堂内に焼けイチョウがあるなら、ここにも……と思い参拝を兼ねて来てみると。神社の境内には1本だけではなく、いくつもの焼けイチョウがありました。そして、保護樹のプレートや『世界人類が平和でありますように…』と書かれている杭のようなものが…。今まで、なぜ木の傍にこんな文字が書かれているのか謎った人も少なくないかも知れませんが、戦争の傷を残していたからだったのかも知れないということではないでしょうか。
空襲、戦争とイチョウの関係
イチョウだけではなく、都内で目にする樹齢300年以上を超えたご神木や古木は、人よりも長い歴史を生きていいます。そして、この地でなにがあったのかをただ、ただその場にじっと佇み見てきたのではないかと感じました。世界のどこかで常に戦争という言葉を聞く昨今です。ときには都内を散策し、焼け痕を残したイチョウを目にしたら、実際にこの場所で戦争があったこと、空襲があって空から爆弾が降ったこと、実際に体験したことがない方もその歴史を今一度振り返り、戦争について考えてみるのもいいのではないでしょうか。
(園芸文化協会会員・グリーンアドバイザー 藤依里子)