世界的な感染症の影響を受けつつも、街には活気が戻り海外からの観光客の姿も見られるようになってきた今日この頃。日本の歴史を振り返るという趣旨の街歩きの会に参加している筆者ですが、今回はその街歩きで出合った下神明天祖神社のご神木をご紹介します。
専門家から樹齢600年と評されるご神木のカヤの木
樹齢600年。人の一生をおよそ100年だとすれば、その6倍も長くこの地を見ている木になります。開墾時代、神社創建時に植樹されたもので、旧厳正寺近くには兄弟樹が存在していたそうです。600年前、室町時代の頃からこの木はあったことになります。大きなカヤの木は、とにかく立派でした。そして、こんな大きな木を目にして、樹齢600年と聞くと、筆者はずっとずっと日本は平和が続いていたように錯覚してしまうのですが、今回街歩きした場所をはじめ、東京大空襲時には焼野原となってしまった地域のひとつであったことを聞いて驚いてしまいます。
カヤの実は炒って食べることもできるが、ざんねんながら落ちていませんでした。
下神明天祖神社について
江戸中期に編纂された幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』の正保年中改定図のなかに、下神明の元である下蛇窪の記があり、昭和58年に340年祭が斎行された歴史が知られています。ちなみに、下神明天祖神社の現御祭神は、伊勢信仰や伊勢・八幡・春日の三神。なんでも、神社にどの神様をお迎えするのかはそのときどきの流行などで決まるそうで、当時(江戸初期に)広く流布していた三社託宣信仰から神様を迎えたとのことで神社の歴史が感じられます。
下神明天祖神社に今も残る防空壕跡
防空壕。若い人にはなじみは薄く、年配の方にとっては当時の記憶を呼び覚ます言葉のひとつかも知れません。宮司さんに案内で「埋めてしまっているから、中の様子はどうなっているかはわかりません」とお聞きしたのですが、神社の防空壕だった場所や、幸い焼けなかったとのことで焼夷弾(ショウイダン)が落とされた穴があいた場所などを見せていただき、日本の戦争の傷あとはかくも身近に残されているのだと実感。戦争は消えない傷なんだなぁとあらためて思いました。もちろん、境内にはそれだけでなく、田植え祭りなどが行われる御斎田なども見ることができます。
戦争と樹木
戦時中、戦火を逃れた多くの場所には防火林や屋敷守りの木があったといった話を伺いました。街歩きをした西大井地区ですが、「焼け残った」とされる場所(お屋敷)には、いずれも大きな木がありました。そして、今回お邪魔した下神明天祖神社の周囲にもグルリと木があり大きなカヤのご神木もあったことなどから、もうひとつの木の役目をあらためて感じ、その役目を果たしそれによって守られた場所があったことを知りました。
ちなみに、ご神木のなかでも非常に多いイチョウですが、戦時中は大きなイチョウの木は水を吹いて(おそらく水蒸気を多く放出したのではないかと思われますが)屋敷を守ったことが知られています。また、キリの木は燃えにくいことから、家の敷地に植えられてられるようになったことを聞き、人と樹木や植物との関係をもっと知りたくなった筆者です。
雅楽も楽しめます
下神明天祖神社では、宮司さん自ら琵琶の演奏もなさり、日本の伝統文化のひとつ雅楽を次世代に伝える活動もされています。年三回程度、雅楽道友会の協力を得て境内での雅楽演奏会「神明雅楽」を開催などもあるそうです。興味のある方はちょっと演奏会に出かけてみるのもいいのではないでしょうか。
〇演奏会の詳細/https://gagaku.com/
- 『下神明天祖神社』:東京都品川区二葉1丁目3-24
(園芸文化協会会員・開運文様研究家 藤依里子)