[ヒマラヤザクラ]戸越公園と日本一遅く咲くサクラ|バラ科サクラ属|エバーグリーン

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サクラは春に咲くだけじゃなかった

「桜三月」なんて言葉があるけど、紅葉のシーズンにそのサクラを見ることができる場所があったので紹介します。紅葉とサクラを同時に見ることができるなんてちょっと贅沢だとは思いませんか。

 

戸越公園のヒマラヤザクラ

このサクラの満開の時期は12月上旬から、とのことでしたが、筆者が訪ねたこの日、すでにサクラの花が風に揺れておりました。きっと通常なら紅葉が終わり公園の木々が枝だけになった頃にサクラがチラホラと花を咲かすのかしれません。パッと見るとあまりに白に近い花の色でサクラとは思えないかも知れませんが、よく見るとやはりサクラでした。

ヒマラヤザクラ

ヒマラヤザクラ

 

ヒマラヤザクラは日本の桜の原種といわれ、ヒマラヤ地方に分布する野生種のひとつだそうです。ネパールの皇太子より1968年に贈られたタネに由来するもの、と看板には書かれておりました。開花が早く花と葉がいっしょに見ることができるのも特徴だとされています。また、冬が温暖な場所では比較的育ち安いのですが四季のある日本ではなかなか育たないサクラのひとつだとされています。最近は園芸種でも見ることができます。

ヒマラヤザクラについての説明

ヒマラヤザクラについての説明

 

今が見ごろの紅葉

戸越公園は、肥後国熊本藩主細川家下屋敷の跡地です。少し歴史を紐解きますと、熊本藩は1600年から1871年まで存在した藩のひとつで、細川家とは戦国武将・三淵晴員(みつぶち はるかず)の二男として生まれた藤孝が、十二代将軍・足利義晴の命により伯父・細川元常(上和泉守護家)の養子になり、十三代将軍・足利義輝が暗殺されたとき、弟・覚慶(のちの十五代将軍・足利義昭)を救出。その後、近江や越前に逗留したとされています。

そして、あの織田信長が足利義昭を奉じて上洛しますが、義昭が信長と不和になると信長に仕えて、山城国・長岡に三千石を与えられたとされています。その後、嫡子・忠興は、丹後国内において十二万石余を与えられ宮津城を築城。本能寺の変のあとは、明智光秀の誘いを拒絶。剃髪して幽斎玄旨と号し、家督は忠興に譲って田辺城に移ったとされています。

戸越公園はそんな細川家とゆかりがあり、園内は大名式庭園の面影をとどめています。(地元の方のお話では今のように美しい景観になったのは20年前ほどからで、東京城南空襲時(1945年4月15日深夜)には多くの区民が火から逃れた場所のひとつだったともいわれています。そのため、この地には戦前からの木々も多く焼け残っているのだとか。筆者が訪ねたこの日は雨上がりだったということもあり、雨に濡れた紅葉した木々がしっとりとした輝きを見せていました。

とにかく美しい

とにかく美しい

紅葉を楽しむなら今

紅葉を楽しむなら今

紅葉を楽しむなら今

 

ライトアップも

公園では午後5時から10時までの夜間にライトアップがされています。なかでも、ライトアップで浮かびあがる暗闇の中にヒマラヤザクラはとても幻想的な姿を楽しむことができるのだそうです。

薬医門

薬医門

 

薬医門というのは、室町時代から武家の門に使われていた正式な門の様式のひとつ。鏡柱(かがみばしら)と控柱(ひかえばしら)、冠木(かぶき)を大きな屋根でおおった形式の門です。戸越公園にあるヒマラヤザクラは十年程前に近くに住む区民から寄贈されたもので、今年は今月上旬から花が咲きはじめ、ちょうど見ごろになっています。花はお正月過ぎまで楽しめます。

 

  • 『戸越公園』:東京都品川区豊町2丁目1−30

 

(日本園芸文化協会会員 藤依里子)


ヒマラヤザクラ